2014年09月27日

自分の”生きる”理由

Author:試作D型
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 ー平たく言ってしまえば、「何か後世に少しでも良いから何かを残して死にたい」という言葉に尽きるのではないかと思っている。

 それは次世代の人物育成(子育てでも、教育という立場でも構わない)だったり、今行っているような創作活動の結果だったりするが、とにかく、「自分がこの世から消えた瞬間に、”自分自身の存在そのもの”が無かったことにされる」というのが最も寂しい事態であると考えている。

 そういった意味では、社会で一般的に言われている人生のテンプレート
  「20歳過ぎたら働いて、結婚して子供を作って、家を建てて・・・」
 というのには一定の意義があるのかもしれない。
 (住宅はうまく行けは数十年形となって残る。次世代も同じ程度は生きてくれるはず。少なくともその間は自分の存在が忘れ去られるという事態は回避できる。)
 
  
 ただし、自分の考え方や生き方から鑑みると、その選択肢を取る以前に他人と全うなコミュニケーションをとるのが非常に高いハードルになりつつあるため、「社会の様相によらず、自力で何か形あるものを残していく」という行動が重要になってくるのではないだろうか。

 それが自分の現在の活動の柱であるBlogだったり、4コマ漫画だったり、別サイトでのお絵かきだったりする。
あくまでネットワーク上の片隅にしか存在できていないため、うまくいっても10年程度、下手すれば1,2年もすれば忘れ去られてしまうものではあるのだが、何もしなければ、文字通り「何も残らないため、自分が消えた瞬間に自身の存在していた事実ごと消えてしまう」状態になってしまうのではないか。

 ・・・人との繋がりも、そういった意味での忘れ去られないための基礎工事のような意味合いが含まれているので、おろそかには出来ないと思っているので、当面は今の生活パターンを続けつつ、何とか人とのコミュニケーションの足がかりを伸ばして行く方向に人生の目標を掲げるべきだろうか。


 願わくば、自分の行ってきた行動が、自身の死後も5年、10年と影響を残し続けてくれれば良いなと考える次第である。

posted by ダイ&エイ at 09:16 | Comment(0) | 思考のDumpLog | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月04日

歪んだ”努力”至上主義がもたらす不条理

自分が現在の精神疾患を患う前後から非常に気になっている概念がある。

所謂「苦労自慢」や「根性論」に代表される、「物理的にどれだけ苦労したかによってその対象行動の価値を決める」というものである。

もう10年近くも前からということになってしまうのだが、残念ながら現在進行形で状況は悪化の一途をたどっている。

確かに自分自身でも、物事の成就、成功の影には人知れず行われている”努力”や、苦境に陥ったときにでもその場に踏みとどまって結果が出るのをじっと待つ”根性”といった概念は必ず潜んでいると思っている。

しかし、現在のソレは、非常に捉えられ方の概念が歪んでしまっている。
具体的には、「見た目に分かりやすく、かつ物理的に苦痛を伴うような苦労をすればするほど良い行動である」という概念である。

物事の達成方法にはそれこそ多種多様なアプローチ方法があり、一見苦労していないように見えていても、
「不都合が表面化しないように自己やリソースを適切にコントロールしながら、成果をキッチリ残す」
というやり方もあるだろうし、逆に、
「リソース管理を怠っていた結果として、不眠不休で作業を行わざるを得ない状況に陥った挙句、何とか形だけでも成果が残る」
というケースもあると思う。

自分自身としては、この両者を比較した場合、前者の行動概念に立脚した成果を、その過程まで含めて評価するべきだと考えているのだが、どうも現在の社会では何故か後者の行動をやたらと評価する傾向が強いと感じている。

後者を前者より評価する形になってしまうと、極端な話、「下手にリソース管理能力があり、物事を適切に判断しながら随時消化していく」という場合よりも「リソース管理能力が無いがために、毎度毎度見た目に分かる苦労を伴わないと何も出来ない」という場合のほうが評価対象にされてしまうという極めて不条理な状況になってしまう。

本来ならば、個人の能力のある・なしによらず、その当人が抱えているリスク、使えるリソースに応じて行った行動の結果を、その過程まで含めて「ある物事について結果を出す」という見地から平等に(ここでの平等は内容の平等を指しているのではなく、機会の平等である)判断していかなければならないのではないか。

現行の社会では、どうも”努力”のありようを”定式化(他人から見た目に分かる苦労をしていること=努力)”してしまっているが故にに、その人個人個人が別途有している”努力の方法・方式”を無視した形で何事も評価しようとしているのが、現在の不条理さを作り出している一因ではないのだろうか。

たとえ目に見えづらい形であっても、真に努力している人は日々努力を積み重ねて行動し続けているものだと感じているし、その逆で苦労自慢ばかりする人達が、その実殆ど何も結果的に行動できていないという事実を数多く見てきているので、自分自身もその概念と格闘しながらも、少しでもこの歪んだ努力の価値概念を治して行きたいと考えている。


・・・世の中には、黙々と日々の作業をこなしているように見えても、その内面で激しい葛藤と戦っている人が居て、それは決して否定されるものではなく、むしろ自身の苦労自慢(大抵が徹夜自慢だったりする)だけを振りかざしながらダラダラと仕事をする人達のほうに問題があるのではないかと思うのです。

posted by ダイ&エイ at 15:25 | Comment(0) | 思考のDumpLog | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

「夢を見すぎる」

タイトルは寝ているときのお話です。
日ごろから夢見がち、と言うわけではないですよ〜

E型です。
少しだけ暖かいかな〜?と思っていたら、一気に冷え込むようになりました;
先週は灯油を買いそびれてしまい、えらい目に遭いました・・・
近隣をノンストップで通過するとは思ってなかったので:
(どうも灯油販売車からではなく、車のある家では買出しに行ったり、オール電化の家が増えているからではないかなと思っています)


さて、現状のお話から。
D/E型とも、現在睡眠導入薬を服薬しないと寝付けない状態になっています。
(但し、日中などで疲労がピークに達している時は除く)

なるべく日中に眠気が出ないようにと、活動パターンを考えてはいるのですが、
どうしても疲れが出るときには出る、そんな状態です。

D型のほうは服薬しているお薬の関係か、「疲れているけど寝れない」状態になるようです。
E型は朝のお薬を「飲む」とほぼ確実に日中耐え難い眠気が来ます;
(かといって服薬しないと夕方近くに強い不安感が出ます・・・)

また、睡眠時に夢を見ることが多くなったと感じています。
少なくとも、起きた後に夢の内容を「話し合う」ことができるレベルで記憶している状態が増えました。

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夢は「記憶の整理」とも言われています。
夢の中で記憶をつなぎ合わせたり、取捨選択したりなどを行い、記憶の定着/破棄を行うと考えられています。

実際、多くのことを考えていた時に寝たときなどは、非常に高確率で夢を見ます。

また、眠りについている際の外的/内的刺激に影響を受けるともされています。
尿意が近かったり、音楽がかかっていたりすると、それに関連する夢を見ることがけっこうあります。
(特にE型)


・・・とはいっても、「なぜ夢を見るのか」と言う根本的な所は解明されておらず、特に夢の内容が芳しくない場合、当人の精神状態は厳しいのですが、他の人に話してもまったく通じないと言う、ちょっと辛い状態にあります。
夢の内容が記憶に残ることが少ないのですが、それでも覚えていたりすると、後々まで辛い思いをすることになったりします。
(数年前の悪い夢の記憶が残っており、現実に似た状態になると思い出す、など)


我々が経験している状態としては、
「夢の良し悪しにかかわらず、記憶に残るような夢を見たときには、起きたときに疲労が抜けていないことが多い」
と言うものがあります。
夢の記憶があるときには、たいてい話をするのですが、そういった時は決まって体調が悪い、もしくは精神的な調子が悪い状態になっています。

体は睡眠時に休んでいるものの、脳は「夢を見る」ことで活動しているため、脳の疲労が抜けない状態が続いているのだと推測しています。
もっとも、「夢をまったく見ない」場合も何らかの問題があるので、それはそれで問題なのですが・・・
結果的には「適度に覚えている程度」かつ「夢の時間が短い」方が「睡眠時の疲労は抜ける」と言うところです。


とりあえずの回避策としては
・寝る寸前まで考え事をしない
と言うことぐらいでしょうか・・・
かといってこれが出来るならそこまで精神状態が悪くなることはないわけで(汗

他によい回避策があればいいのですが。
posted by ダイ&エイ at 16:50 | Comment(0) | 思考のDumpLog | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月01日

アナログで絵(線画)を描き続ける理由

エイです。
最近ちょっと寝つきが悪くなってきています・・・
お薬にはあまり頼りたくないのですが;

さて、最近D型と話した内容のうち、メモしてあったものをログとして吐き出しておきます。
E型は実は初めてかな・・・?


2013年現在、全てPC上でお絵かきなどの作業を行えるようになっています。
(テキストデータなどはかなり古くから出来ていました)
E型は目が悪いため、ペン先と表示位置が異なるタブレット(普通のもの)だと、精度上の問題で描きづらかったりはするのですが、これは余談。

特に線の情報をベクターデータで残しておけるタイプのツールだと、
・拡大縮小などの変更を加えても、「ベクターデータ」そのものには変更が無いため、(データ上は)劣化しない。
・線そのもののデータを変更できる(連結/分割/移動など)

また、ツールによりますが
・ペン入れ補助機能(大まかな「線」と思しきラインを中心として、新たな線を引くことが出来る)
・レイヤー機能(上下の重なりを考慮して、部分部分に分割して描ける)

などなど、絵を描く上で非常に便利な機能がたくさんあり、
全てを駆使できるようになれば、非常に高速に、かつ綺麗な絵が描けるようになったと思います。

実際、早くなっているなぁと感じることも多くなりました。
いや、我々が遅いだけかもしれませんが・・・;;

それでも、D型E型とも、「アナログで絵を描き続け」ています
(この場合は「きちんとした線画を紙に描く」となるわけですが)
まぁ、色付けは部材が無いので、現時点では妥協点です。
D型は「水彩マーカーが欲しい」と言っていますが・・・1セットあってもいいかな?\5,000ぐらいするけど・・・
ちなみに現在スケッチブックがお気に入りの様子。


これは色々と理由があるわけですが、大雑把に
・最低限のもの(この場合は紙とペン)で絵が描けること
・いつでもどこでも絵が描けること
・いつまでも描いた絵が残っていること
と言う形になるかと思います。

E型は絵を描き始めてからおよそ20年、D型でも15年ぐらいでしょうか?
(さすがにE型当初の絵は残っていないですが)開始当初から、ほぼ全ての絵が家に残っています
一度だけ、外向けに出した絵が破棄された例もありますが・・・(汗)

「紙に描いた」アナログデータは「とりあえずバインダーに挟めておく」だけで、かなりの長時間保存ができるから、と言うのが一番の理由です。
ノートに取ってあれば、「ノートは捨てない」と言う風にするだけでほとんどずーっと保存できますし。

ディジタルデータの場合、データ「そのもの」の寿命はないのですが、
・データを記録する「媒体」に寿命がある(しかも紙などと比べると十分に短い)
・わずかでもデータが破損すると読み取れなくなる(シーケンシャルデータでもない限り、一部欠損などでも再生できなくなる)
・エンコード方式が分からなくなると再生できない(データそのものはビット列の塊であり、それ自体に「意味」が含まれているわけではないため)

など、現時点では色々と問題を抱えていると思うのです。
媒体寿命/データ破損はバックアップを複数取ることで、現段階では解決していると見なせますが、
エンコード方式が分からなくなった(近い将来は無いでしょうが、たとえば.PSDファイルの構造が分からなくなった)場合は、
それこそ古代文字の解読のような作業を行う必要があるわけです。
それが暗号化されているならなおのこと。

結局、どこかの段階でアナログ出力(印刷など)しておく必要があるのかな、と思います。
プログラムなどは出力するのが難しいですが・・・;

それなら、手間はかかっても、最初からアナログで描いたほうが早いのでは?と思う次第。
結果的に「どんな環境でも」描けるというのは最大の強みですし。


まぁ、さらにいえば「思考」も「ディジタルデータ」(物理量がなく、電気的刺激により構成されているため)になると思います。
だからこそ日記をつけたり、こうしてブログなどに「一時的にでも」吐き出す必要があると思っているのですが・・・

なにせ「忘れる」と、ほとんど失われてしまう上、当人が存在しなくなった時点で「全て消えてしまう」訳ですから。

生きた証を無くされるのは御免被りたいところです。


・・・そんなわけで今日も今日とてお絵かきしています。
posted by ダイ&エイ at 17:23 | Comment(0) | 思考のDumpLog | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月25日

それがたとえ僅かでも、具体的な”頑張るための指標”を知りたい

Author:試作D型
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毎日毎日、それこそ物理的に体がズッシリと重たくなったり、体のあちこちが痛くなったり、目がかすんだり軽い眩暈を起こす程度まで肉体を酷使しつつ、精神的にも二日にいっぺんぐらいは「これだけやっても何の反応もないか・・・」という絶望感に苛まれながら生活しているのだが、それでも「こんなもんではまだまだ不足だ。社会にはもっともっと頑張っている人たちが居るんだから、休んでいてはダメだ」という感覚に囚われることが非常に多い。


自分自身、おそらくここ10年ぐらいで特に強く感じているものだと考えているのだが(社会人として仕事を始めた時期とも一致するので詳細な切り分けはちょっと難しい)、自分の周囲(家族、親交の深い知人友人を除く)では、下記のような単語が頻繁に飛び交っていると感じている。

「何が何でも一生懸命に」
「寝食を忘れて」
「全身全霊で」



自分はこれらの単語に関して「なるほど、確かにヒトカドの物を残していくためには必要な概念だ」と素直に感じるのだが、それとは裏腹に、それらの単語を実際に聞くときには大きな違和感を感じてしまってならない。

大きな理由としては、恐らくその単語を口にしている人達が、ほぼ一様に「その単語が意味する行動を何一つ実践していない」事があるのではないかと考えている。

一番良く聞く話が、その実践例として「何日徹夜した」とか「仕事で今日も終電だよ」などという一種の苦労自慢なのだが、自分から言わせれば「徹夜するぐらいならその手前の時間からしっかり時間配分しなかったツケを無理やり支払っているだけだろう」という程度のものでしかない。
さらに、本当にそれらの概念を真摯に考えて行動し続けている人達は、決してそんな話をしている肉体的余裕も精神的余裕もあるわけがなく、ただ黙々と目標に対して向き合い続けているのではないかと考えている。


自分自身もこういった記事を書き連ねている時点で、本当に真摯にある目標に対して向き合い続けている訳では無いのだが、逆に「全ての行動を特定の目標に対して捧げ続ける」という概念は、それほど長くは続けられないものだと強く感じている。

例えば「寝食を忘れて」といっても、実際に自分が一番集中している時でも、連続24時間もその状態が続くことは無く、その時間が終わって一息入れたら何かエネルギーを摂取したくなるし、その状況が繰り返し1週間も2週間も続いたら物理的に体を壊してしまうと感じている。

「全身全霊をかけて」といっても、自分の目標以外の「生きるために必要な、もしくは社会生物として行うべき行動」に関して、何かの代替手段を用意するか、誰かに肩代わりしてもらうことを前提として初めて成立する概念であり、これも何日も続くことは実際問題難しいと感じる。


確かに、そんな問題の数々を人や時の巡り合せによって克服している人が偉大な足跡を残しているものを、文献や時にはリアルタイムで見ることがあるのだが、その割合は社会の全体人口から見ると途轍もなく小さい規模でしかない。
体感でしかないが、大体1〜10万人に一人、1年に2名以上見かけることができれば多いほうだと思っている。
さらに、その足跡を穴の開くほどその人の背景世界まで考慮してみても「確かにこの結果を導き出すために、その人は時間空間的にあらゆる犠牲を払いつつ、それでもなお巡り合わせや運の力によって社会内部に存在できている、実に偉大な人だと感じるが、自分がそれを出来るかといったら、背景世界からして違うため、参考にならないという感覚までしか至らず、「じゃあ、〜の様に頑張ろう!」という話には決して至らない。


そんな話を日常的な生活空間の会話で頻繁に交換しながら「頑張るぞ!」「お前も頑張れよ!」と言い合っているのは、「単なる意気込み」にしかならないのではないか?と感じてしまってならない。
ただし、それが余りにも頻繁に使用されているため、自分自身の行動を振り返ってみたときに「明確な肉体的・精神的にダメージが蓄積している」サインが出ているにも拘らず、「そんな感覚を持っていること自体が怠ける精神の象徴だ」という感覚へのすり替えが発生しているのが、現在最も自分自身を活動に対して重たくのしかかっている部分の一つではないだろうか。



−自分は毎日「明日も生き続けるための余力を残しつつ、残りの体力・精神力を限界まで注ぎ込んで生きている」が、
それでも具体的な結果を出すために、休まず何かをし続けなければいけないのだろうか?

−逆に具体的な結果が出たからといって、その結果だけに捕らわれ本来続けるべき活動を止め、長期的にはその結果自体が風化するまで休み続けてしまってもいいのだろうか?


−人は何を持って「休んでいる」としているのか、逆に何を持って「頑張っている」としているのか、そして人間が人間として生きていくためのそれらの配分はどのようにあるべきなのか?



現在は「もっと世界の成り立ちを考え続ければ、少しずつでもその指標の欠片が手に入るのではないか?」と信じて日々自分の知っていること、知らないことへの更なるアプローチを試み続けているが、具体的な手がかりは殆ど見つからず、体力や気力はすり減り、悩みは増え続ける一方である。
posted by ダイ&エイ at 17:11 | Comment(0) | 思考のDumpLog | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする